2009年9月19日に、マイケルやもという名前で初めてステージに上がって今日で6年になりました。
>>衝撃のデビュー映像(笑)
80s DISCO NIGHT MJスペシャル@目黒食堂
この6年間、本当にたくさんの人たちとの出会いに恵まれて、おかげさまで、ここまで色々なことをやってこれたと思っています。
本当に心から感謝しています。
「マイケルやも」をやるきっかけになったことを、今でも昨日のことのように思い出します。
2012年5月にmixiに書いた日記です。
マイケルやもを産み出してくれたCHINOロペスさんに感謝です。
===
これは僕が、人前で初めてマイケルのパフォーマンスをすることを決心した時のメールです。
★日付に注目↑
その年2009年の3月、いきなりマイケルの記者会見がありました。
すぐ後にThis Is Itの発表があり、まもなくチケット販売が開始されました。
一般席が取れず、ようやくプレミア・シート(スリラー・パッケージ)で10列目くらいを確保しました。
毎日が楽しみで寝られなかった。
「See you in July!」
マイケルつながりのみんなと毎週のように会っては、マイケルの話をした。
一日中話しをしても話しは尽きなかった。
その年の5月16日、その日も上映会オフからのマックで夜中まで話していました。
誰かが言った「オープニング、想像してみて?」
マックは、悲鳴でいっぱいになりました。
その日はNHKの「熱中夜話」への出演のお誘いがあった。
そして家に帰る道で、もう1軒、チェックしていたイベントに一人で行きました。
目黒食堂
80’s DISCO NIGHT
ビルボード・ヒット、ソウル、ユーロビート・・・
それは僕にとって、とても心地よい空間でした。
1人で、2時間くらい、80’sサウンドに身をゆだねた。
マイケルのビリー・ジーンや、ヒューマン・ネイチャーもかかったから、マイケルのまねをして踊った。
そして帰ろうとしたとき、引き止める人がいた。
「このイベントのオーガナイザーだけど、次のこのイベントで、マイケルのパフォーマンスをしてくれないかな~」
「ごめんなさい。僕は、そういうのやったことないから。」
さっき見た素晴らしいダンサー達のショーケースのどこのどのあたりに、自分などが入ってゆけるすき間があるものか。
しかもちょっと怖いから、目を見ないようにしてた。
「どうやって説得しようかな」
グラサンを取ってふいた時に、想像もしてなかったキラキラした瞳がのぞいた。
「音源も作るからサ、出来上がったらやるかやらないか決めてくれても全然いいよ!」
僕は連絡先を渡してそのお店を出ました。
その時の場所で再現写真(既にマイケルになってますが^^;)
2012年5月、目黒食堂ファイナルにて
それが、
CHINOロペスさんとの最初の出会いでした。
映画フラッシュ・ダンスに登場した伝説のブレイクダンス・チーム、ロック・ステディ・クルーのメンバー、
ドリカムやMAXのステージ、PUFFYのPVなどで、
日本のダンス・カルチャーを開拓し、
エンタテインメントのありとあらゆるシーンを支えてきた、
そんなお方からの畏れ多きお誘いにもかかわらず、
その後も気乗りがしない僕に、何度も連絡をくれて、ショーの提案をしてきました。
それから1ヶ月ちょっとが経ち、冒頭のメールでのやりとりをしました。
翌日。
「ヤモさん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大丈夫ですか?」
「これはきっと何かのご縁だし、このショーはぜひやらせていただけませんか?それと、マイケルファンが集まるところに一緒に行きましょう。」
翌々日に代々木公園で行われた「追悼集会」に一緒に行きました。
>>マイケル・ジャクソン 追悼集会 at 代々木公園 09年6月27日
>>2009年6月 フランスの国際ニュース専門チャンネルFRANCE24に放映されました
200人ほどのマイケルファンの中、自然と集まった数人と一緒に無音でマイケル・パフォーマンスをした。
信じられない・・・だけど今、この目の前にいるみんなを笑顔にしたい。
僕は今も、この気持ちを胸に抱いて、
自称MJトリビュート・パフォーマー「マイケルやも」をやっています。
そしてその扉を開いてくれたCHINOロペスさんに、言葉では表せないくらいの感謝をしています。
CHINOさんと(後ろにパーツさん、DJ−BEATさん)2012年5月、目黒食堂ファイナルにて
この記事は2012年5月mixiに投稿した日記を再編集して掲載しました。