当時のクインシーへの人々の評価は、「アレンジを書く速さ、すぐさま答えを見つけ出す才能、オープニングのキャッチーな8小節」に集約されると思います。前出の”アイアンサイド“は、まさに「キャッチーな8小節」を物語る作品です。これと全く同じ事は”スリラー“でも実践されていますね。

ジャズ、映画音楽のアレンジで右に出るもののいなくなったクインシーの照準は、「ポップ」での成功に絞られたといえます。自ら「R&B」とか「ソウル」でなく「ポップ」と表現している所に、大きなビジョンが伺えます。
75年の「ボディヒート」、81年の「愛のコリーダ」、89年の「バック・オン・ザ・ブロック」は、クインシーのポップ戦略における三部作(その間にも発表されたアルバムはありますが)といわれます。そしてその間に挟まるさん然たるプロジェクトが、マイケル・ジャクソン三部作です。
 「ボディ・ヒート」は、クインシー名義では5枚目のアルバムで、まだジャズ色が強く残りますが、ヴォーカルに”ラヴィング・ユー”を歌った伝説のディーバ、ミニー・リパートンをフィーチュアし、ギターにワウ・ペダル奏法を開発したワーワー・ワトソン、モータウンのNo.1ドラマー、ジェイムス・ギャドソンなどR&B畑の新進ミュージシャンにハービー・ハンコックを揃えて臨み、80万枚という彼にとって初の大ヒットとなりました。とはいえ、クインシーにして80万枚ですから、いかに彼自身が今まで商業(売れるレコード作り)と離れた所で活動していたかが分かります。

ミニー・リパートン” If I Ever Lose This Heaven”  
その直後、クインシーは脳動脈瘤破裂で死線をさまよい、追悼コンサートまで用意されるくらいの絶望的状況に陥ります。が、奇跡的に復活すると、ブラザーズ・ジョンソンルーファス&チャカ・カーンジョージ・ベンソンパティ・オースティンなどR&Bアーティストのアルバムに立て続けに関与します、この時確立したのが「アレンジ」よりもっと、最上段に立ってプロジェクトを動かす「プロデュース」というスタイルです。また、この時発掘したのが、元ヒートウェイヴのロッド・テンパートンです。そして、この時のエッセンスを総動員して製作したのが、79年の「オフ・ザ・ウォール」です。
「オフ・ザ・ウォール」は、マイケル・ジャクソンから見ると、クインシーの「おまかせコース」だったと思います。エンジニアにジャズ時代からのパートナーでアナログの魔術師、ブルース・スウェディーン、メインのソングライターに前出のロッド・テンパートン、ギターに前出のワーワー・ワトソン、ベースに前出のブラザーズ・ジョンソンのルイス・ジョンソン、ドラムスに前出のルーファスのジョン・ロビンソン(ジュリアナのDJではないですよ!)、また前出のパティ・オースティンも”それが恋だから(It’s the Falling In Love)”でデュエット。これにキーボードのグレッグ・フィリンゲインズ、ギターのデビッド・ウィリアムズなど錚錚たるラインナップを揃えます。ここで完成したオーケストラで、クインシーはポップ界での名声をもつかんだと言ってよいと思います(クインシー自身「キラーQ軍団」と呼んでいます)。
「愛のコリーダ」は、完全にR&Bの最先端を行く作品だったと思います。前出の女性ヴォーカル・パティ・オースティンは幼少からクインシーに見入られ”ドゥ・ユー・ラブ・ミー“で一躍ディーバに躍り出ましたが、”ラザマダズ”でのパティ・オースティンの歌声は、マイケルの声と聴きちがう程よく似ています。クインシーは、このような声質を好んだのかもしれません。男性ヴォーカルには、「秘蔵っ子」”ジェイムズ・イングラム”を起用。ディスコ・シーンを席巻しました。
 
パティ・オースティン&ジェイムズ・イングラム 
そして82年「スリラー」です。「スリラー」は、スタッフ、メンバーほとんど「オフ・ザ・ウォール」を踏襲していますが、大きく異なる点は、超一流のミュージシャンで構成される白人ロックバンド、TOTOのメンバーがほぼ総出で参加している点です。「オフ・・」ではスティーブ・ポーカロのみ参加でした。TOTOは「スリラー」の同年にリリースした「TOTO�~聖なる剣」で、82年のグラミー賞で7部門制覇しています。こんなバンドが総出でバックを務めるのだから、並みではありませんね。そしてその翌年には「スリラー」が8部門制覇というのはご存知の通り。すごいとしか言いようがありません。「オフ・・」では1つもグラミー賞を取れず、世界制覇の為、”マイ・シャローナ”のようなロックンロールが必要というクインシーのアイデアに、マイケルが応えたのが”今夜はビートイット“であったと言います。
それを彩るメンバーにも、白人のテイストが欲しかったのではないでしょうか。
「オフ・・」と「スリラー」には、もうひとつの大きな違いがありますね。そう、プロモーション・ビデオへの注力(ショート・フィルムスタイルの確立)です。これは自費を投入したマイケル主導のプロジェクトであったので、この点が「おまかせコース」であった「オフ・・」からの大きな変化だったと思います。
とまあ、気が付いたら、事実だけ羅列してしまいましたが、次に続きます。
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