クインシー・ジョーンズは、マイケル・ジャクソンの「オフ・ザ・ウォール」、「スリラー」、「BAD」3枚のアルバムをプロデュースしました。

僕がクインシー・ジョーンズという人を知ったのは、アルバム「愛のコリーダ(The Dude)」(81年)の同名曲(“Ai no Corridor”)からです。3歳上の兄が、隣の部屋で一日中聴いていて洗脳されました。ありがちな間違いですが、ずっと歌っている人がクインシー・ジョーンズだと思っていましたので、「ベストヒットUSA」で、小林克也さんが「クインシー・ジョーンズの秘蔵っ子で、愛のコリーダを歌ったジェイムズ・イングラムの・・・」と言った時、少し頭が混乱しました。
日常、なにげなく生活する中に、インテル・インサイドのようにクインシー・ジョーンズがあふれている事に気がつき出したのは、20年ほど前でしたでしょうか。タクシー帰りになった時、ジャズやクラシックなどを流すラジオの深夜放送の曲紹介で、「続いての曲は、クインシー・ジョーンズの”ソウル・ボサノバ”です。」これを聴いてブッ飛びました。東京モード学園のCM曲もクインシーなのかと。

Soul Bossa Nova

また、これは若い人では分からないと思いますが、土曜日の夜10時から日テレで放送していた「ウイークエンダー」(「お父さんの為のワイドショー講座」みたいな番組です)。その最初のコーナーで、クインシーの曲「鬼刑事アイアンサイド」のツカミがジングルとして使われました。
Ironside
「新聞によりますと~」またまたブッ飛びました。
「この人は一体、どの位奥が深いのだろうか?」と、初めてマイケル・ジャクソンから切り離して、乏しい情報ながら、クインシー作品を聴くようになりました。
凄絶な幼少期を経て、13歳で頭角を現わし、ジャズの名門ビッグバンド、カウント・ベイシーやデューク・エリントンのトランペッターとしてプレイ、2歳年上のレイ・チャールズを友人に持ち触発されながら、サラ・ヴォーン、フランク・シナトラなどのアレンジを手がけるようになった事を知りました。
一方、クインシー・ジョーンズには「やり手のプロデューサー」のイメージもありますが、実際のところ長い間、「ヒット」を生むより「名盤」を作るこだわりが捨てられず、有名になっても何度となく一切の財産をだまし取られ無一文になったりと、想像よりヒューマンな方なのだなあと思います。
ジャズ界での名声を確実にして、より商業的な分野に進出していったのが、「ボディ・ヒート」(74年)、「愛のコリーダ」(81年)、「バック・オン・ザ・ブロック」(89年)の”ポップ三部作”です。
これらを、”マイケル三部作”と足して、流れの中で見てゆきたいと思います。
・・・続く
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